「君は神だ☆」と言われましても…

自分の中の神様スイッチ押すブログ

自分は何がしたいのかわからない人へ

みんなこんばんは!

ニニギミノルです。

 

今日は、人生の大半で僕を悩ませた、

「自分は何がしたいのか?」

という問いについて、話そうと思う。

 

先に言っとくけど、

「俺はこれをやるために生まれてきたんだー!」とか、

もう分かったわけじゃないよ。

あるいは、すでに自分の才能に気づき、

努力を重ねてその道を極めてもいない。

 

そんな立場の僕だけど、

いまこの問いについて話してみます。

 

僕は、

さいころからずっと、

やりたい事や、なりたい職業がなかった。

だから、聴かれたり、

卒業文集の時とか、

すごく困った。

 

友達のを参考にしたり、

いま流行っているもの、

いま習っていることの延長上で、

なんとか答えてきたんだ。

 

小学校を卒業し、

中学校を卒業し、

高校も、大学も、ずっとなかった。

 

で、いよいよ就活って時期になって、

分からなさ過ぎて、

一回休学してインドに行こうってなったんだけど、

それもやめて。

 

気付いたら卒業してて、

しょうがないから就職浪人。

 

バイト先にそのまま

就職することも考えたけど、

なんとか奮起して中小企業の営業マンになった。

営業になりたいってわけではなかったけど、

しゃべるの好きだったから。

 

その時は、「いづれこの会社の社長になる!」って

目標決めたんだけど、

それは、やりたい事とはちょっと違うよね。

 

8年くらいはなんとか、

モチベーション保てたけど、

11年でサラリーマンを

ドロップアウトしたのね。

 

で、いまは奥さんの夢だったお店を

夫婦でやってるって体(テイ)だけど、

実際は奥さんの経営を手伝ってる感じ。

 

目の前のことでずっと

ごまかしてきたけど、

やりたいことがないってすごく辛かった。

たぶんここまで読んでくれてる人は、

同じような経験してるんだろうね。

 

だれかや社会に流されてずっと溺れそうで、

必死でもがいて手足でまさぐるけど、

何にも掴まれるものがない。

そんな溺れかけの毎日。

壊れかけのレディオ。

 

僕の場合は、

幸いにも奥さんが辛抱強くサポートしてくれたのね。

だからなんとかおぼれずにすんだ。

 

今から考えると、

必死でもがいてたんじゃなくて、

怖くて動けなかったんだけどね。

臆病かつ傲慢だったの、たぶん。

 

で、いよいよもう死んじゃうかってなる間際で、

プライドもエゴも脱いで、

ぼろぼろに泣きながら、

「助けてください、、、!」って、

天を仰いだあたりから、

不思議なことや、不思議なご縁で

救ってもらったんだ。

 

でね、

じゃあ今はやりたい事が

見つかったのかっていうと、

そんなことはない。

 

でもね、

不安は消えた。

もういい歳だし、

今からやりたい事分かったって、

実現するの無理じゃない?

とか、思わないの。

 

必ずうまくいくっていう、

道の上にいるっていう安心感があるだけ。

 

「そりゃ、お告げとかもあるし、

天孫降臨とか、

やりたいこともあるから

言えるんじゃない?」

 

って思うかもしれないね。

 

でもね、順番が逆なの。

お告げがあるから、

信頼するんじゃなくて、

信頼するから、

お告げを感じられるの。

僕の場合、お告げというより直感ね。

 

大げさに言うと、

目隠しして一歩踏み出せたら、

そこに足場が現れるって感じ。

 

でも、僕みたいに臆病だった時には、

一歩先が崖のように感じて

恐怖で脚が前に出なかった。

 

もうひとつの

神様がくれたインド旅

にも書いてるけど、

僕の場合の悟りの入り口は、

「中が見えない小さな穴に、

入れるかどうか」だったんだよね。

 

ほかの人にとっては、

簡単なことかもしれないけど、

僕にとっては、

人生が動き出すための、

大事なトリガーだったんだ。

 

じゃあ、いまはどうやって

安心して、信頼して生きてるのかっていうと、

なるべくいつも本当の自分を、神様を感じて、

直感ぽいものにトライして、

実証してみるって感じ。

スピリチュアルPDCAね。

 

まだ鈍いから、

毎度毎度、

「やっぱこれで正解だった!」みたいには、

いかないけど、

ときどき、「良い調子よー!」「合ってるよー!」

みたいなフィードバックがちゃんとあるんだよ。

 

たとえば、

この間、伊豆と富士に、

人が聴いたら???な使命で行ったんだけど、

(知らない人はこの記事見て)

弾丸ツアーから帰ってきて数日後に、

郵便ポストにこれが届いたの。

 

雲見浅間神社の御札!

f:id:niniginomikoto:20190607000332j:plain

 

その地域では、

富士山の話をすると祟りがあるって言われてるのに、

その神様に富士山の水を奉納するっていう、

愚行をはたらいたのにだよ!

 

~べき、

~しなければならない、

セオリー、

常識、

一般論。

 

そういう自分以外の概念は、

もう終わりにしようってつくづく思う。

それに従ったって、

だれも責任なんか取ってくれないもん

 

ユダヤ教にこんな教えがあるってさ。

「自分が自分のために

自分の人生を生きていないのであれば、

いったい誰が、

自分のために生きてくれるのだろうか」

 

それと、もうひとつ大事なこと。

何かをするから、成功なんじゃない。

どのようにあるかで、人生は決まるんだよ。

(偉そうに、、、)

 

Doingじゃなくて、Being。

つまり、在り方ね。

 

仏教では、

八正道とかいうけど、

ひとつひとつの感じ方、

見方、聴き方、

あらゆる意識

あらゆる行為。

 

それが、

複雑じゃなく純粋に、

煩雑じゃなく丁寧に、

外側じゃなく内側で、

そのように在れたなら、

大安心の人生が始まるよ。

 

それでも、不安で苦しいときは、

純粋に、丁寧に、内側で、呼吸してみて。

ちなみに、呼吸って、

吸ってから吐くんじゃないよ。

 

呼吸の漢字よく見てみて。

呼吸を意識したら、

まず吐くの。

吐いて吐き切って、

はじめて吸うの。

 

水槽の水を替えるときに、

新しい水入れてから、

出さないでしょ。

それじゃ、きれいになりきらない。

 

まず汚れたものを抜き切る。

そして、真新しいものを取り込む。

 

まず吐き切る。

そうすると、聖なるものを呼びこむの。

そして、空っぽの体に、

聖なるものをめいっぱい、

吸い込むの。

 

じゃあまたね!

はい!吐いて!